主日礼拝説教要旨

2013年2月3日 ヨハネ森啓一牧師

へブル人への手紙連続講解14回目 7章4節~10節

メルキゼデク~キリストの予型 信仰の父 アブラハムが彼に10分の一をささげた 当時はどこかに略奪に行くとその10分の一を与えた EX,現代も落し物8~22%もらう 十分の一のささげもの(献金) この教えに関して、旧約にはのっているが新約にはのっていないので自分の思うままにささげればいい、示されるままにささげればいいという考えがある。 背景は律法は終わったからおわった。しかし最初に10分の一が出てくるのは律法の前 メルキゼテクがアブラハムを祝福した この時の戦いは神が共にある戦いで318人で勝利した。アブラハムは知っていたので彼は喜んで感謝を持ってささげた。 アブラハムがメルキゼテクに十分の一をささげた 律法ではなく信仰 ソドムの王はあなたが勝ち取ったから人は私のものだが財産全部はあなたがとりなさい。しかし、アブラハムは受け取らなかった。 十分の一は律法の前、律法が基準ではない 最も良いもの 信仰が十分の一を捧げている 神を認める、礼拝するは最初からあった。 創世記4章でアベルとカイン アベルの捧げものは認められカインのは認められなかった アベルは自分の手で最も良いものを持ってきた しかしカインは自分で持ってこなかった。 カインの心はアベルのようでに心が伴っていなかった 神のものは神にかえる。神を礼拝すること、第一とすることは最初からあった。 マタイ23:23 神を愛することは神にしたがうこと、神の命令を守ること 神を愛さないで形式だけでささげるのは意味がない。十分の一をささげればいいんでしょう? (律法によっては人は救われない。キリストの十字架によって救われることを律法は知らせる)  神に感謝して喜んで、土台に神を愛する、礼拝することによってささげる キリストに対する信仰を提示する マラキ書  マラキは旧約最後の預言者。BC430年に預言者として召されれた。 BC586にエルサレム陥落、BC538 に神殿再建 その100年後。その当時、メシヤが来ないと言って、民や祭司は失望し神殿軽視、神を礼拝することの軽視、神の声に聞き従うことがおろそかになり、いけにえにまぜてはいけないものを混ぜた。神を冒涜。 イスラエルの民、祭司が堕落していた。 その時にマラキは神に立ち返るように送られた。 そこに神を第一とするように、言われた中にまず一番最初に言われたことが十分の一(マラキ3:8) マラキ書が書かれてくる。マラキ1:1 どんなに神はご自身が冒涜されても、イスラエルの民が神に愛されていることは変わらない、ことが書かれている。 十分の一献金 捧げる人は受ける 1、霊的な祝福 2、実際的な祝福 ネットで十分の一を否定している人は証しがない 十分の一をしている人は証しがある 3、天に宝を積む 十分の一をささげたらなくなる→ソドムの王と一緒。神を第一としていない。ソドムの王と一緒。減るのではなく受ける。神は与え続ける  EX,イエス様に香油を注いだ女性 惜しまなかった。 いやいやながらでもなく、強いられてもなく喜んでささげる EX,大川先生の証 小さな教会だった時、韓国から奉仕者 謝儀の十倍が与えられた 最も良いものの中からアブラハムは10分の一をささげた マラキ書の時代は十分の一がないがしろにされていた。十分の一をしっかりとさせることで神を第一とし神の働きができる。惑わし、ソドムの王もやってくる。しかし喜んで捧げていきましょう。 神を第一とすることで祝福を受ける、主のものを自分のものにしない。