殉教祈りのツアー
2010.2.4(木)

祈りのミッション主催で、日本最初の殉教者、日本26聖人が歩いた道筋をたどって長崎の西坂まで、
祈りのツアーが出ました。

日本26聖人の殉教ツアーガイドをしてくださ るイザヤ木原真牧師。

26聖人たちは、1957年、豊臣秀吉の時に宣教師、キリスト教信者であるという理由で彼らは十字架にかけられ殉教していきました。
京都・大阪で24人が捕らえられ、佐賀の山本 村で2人加わり26人。

その中に十代の子供が4人、12歳のルドビゴ茨木少年を、役人の寺沢半三郎は助けてあげたいと思い、自分の養子になるよう勤めた。
条件は、信仰を捨てること。
ルドビゴはまだ12歳。
でもこの先信仰を捨てて、おいしいものを食べ、武士になって何十年生きることより、
イエス様といっしょに天国にいることを即決しました。

彼にとっては主とともにいることに勝る喜びはなかったんですね。
着いてすぐ、礼拝をしました。

賛美と預言が語られ、唯一子供の参加者、2歳の女の子も手を上げて
賛美しています。
信仰って、大人か子供でなく、
信仰歴でもない。

本当に本当にイエス様を愛しているか
ってことですね。
しばらく黙想中。
26聖人の一行は、首、両手を縛られ、
山陽道から唐津を経て2月4日、東彼杵に
着きました。

(東彼杵にある記念碑)
大村湾で休憩し、黙想していたペテロ・バプチ スタ神父は、自分が全身全霊を傾けた布教は始めたばかりなのに、それを継ぐべき同僚までもが共に死んでいく、これからの日本の滅び行く魂を思い、とめどな い涙を流しました。
彼はもう祖国に帰れなくなるとか、
もう家族に会えなくなるのが悲しいとかではなく、日本の滅び行く魂を思って涙しました。
彼杵の海岸でしばらく祈る時が持たれました。 とても求霊愛が注がれて、家族、親族、友人、知人、一人ひとり名をあげて、救いを祈りました。
26人は東彼杵から三隻の舟で水路、時津へと 向かいました。

時津に着いたのは、夜の11頃。

(最近たった碑)
雪の夜の寒さ、それに飢え、疲れに耐えなが ら、すぐには上陸させてもらえず、舟の上で一夜を過ごし、2月5日に上陸しました。

私たちが時津に着いたのは、夕方で、曇っていたせいもあってとても寒かった。
温暖化といわれ、ダウンにブーツ、それにホッ カイロ。それでも寒かったです。

当時はもっともっと寒かったでしょうに、26人の殉教者がここまで来れたのは、特別な神さまの恵みと守りがあったとしか思えません。

ここで祈った時は、弱い者を神さまは守ってくださると感謝しました。
2月5日早朝、時津を出発し歩いて西坂まで。
午後5時、刑場の長崎の西坂で26人は十字架にかけられました。

日本最初の殉教者となりました。
十字架につけられた彼らは、苦痛な表情ではな く、喜びに満たされ、ルドビゴとアントニオが詩篇113篇を賛美しはじめ、天使の歌声が響き渡りました。
パウロ三木は十字架上から太閤秀吉、旧友だっ た寺沢半三郎、また今自分に槍を向けようとしている者たちに赦しを告げ、最後の説教をしました。
彼らは最後の最後まで賛美をささげ、福音を語 り、キリストを愛して殉教していきました。
秀吉はキリシタン弾圧、見せしめのために十字 架刑にしたのですが、そこには天国の臨在、喜びが流れ、弾圧を恐れるどころか、多くの者がクリスチャンになるというリバイバルが起きました。
西坂のレリーフの前で礼拝をしました。
「やすらぎの歌」の歌集から『一粒の麦』を賛美しましたが、とても深い臨在と天の喜びがありました。

レリーフに刻まれたみことばは
『人 若し我に従わんと欲せば、己を捨て
十字架をとりて、我に従うべし』
マルコ8章34節
浦上四番崩れの時、拷問の中、神の恵みにより 一人信仰を守った高木千右衛門のお墓
主の十字架クリスチャンセンターのお墓の真向 かいにあるお墓。
ヨハネ12章24節のみことばが刻まれています。
『一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。』
主の十字架CCのお墓。
イザヤ木原真牧師が、「自分の熱心や決心では殉教はできません。主の恵みがないと殉教はできません。」と言われました。
本当にそうだとおもいました。